< 寄 稿 >

さつま人国誌

 鹿児島県出水市出身の作家・桐野作人氏が鹿児島ゆかりの歴史上の人物に関わる逸話を掲載します。

〈447〉真木和泉の薩摩入国(下) 2017.03.20
〈446〉真木和泉の薩摩入国(上) 2017.03.06
〈445〉島津忠昌の自害 2017.02.27

No.447
真木和泉の薩摩入国(下)
■影響力恐れられて抑留
真木和泉の銅像=久留米市水天宮
 西国の尊王攘夷じょうい派の巨魁きょかい・真木和泉を領内に受けれてしまった薩摩藩はその処遇に苦慮していた。
 久光周辺では、すでに真木一行の入薩前から、京都の近衛家からの督促を受けて上京計画が着々と進められていたからである(「玉里島津家史料一」一三六号)。実際、久光は文久二(一八六二)年三月十六日に鹿児島をって京都へ向かっている。西国や畿内の尊攘派は久光の上京に大いに期待し、大挙して京都に集結しようとしていた。
 もし真木を同行して上洛じょうらくの途についたら、その影響力によって、ますます尊攘派は勢いづいてしまい、薩摩藩では制御不能になってしまう恐れがあった。だから、真木をあくまで領内に抑留しておくことにしたのである。
 薩摩藩は真木一行を接待漬けにした。真木一行が逗留とうりゅうした下町会所(城下西田町か)には町年寄、目付、用聞ようきき、料理人まで十数人が詰めた。連夜のように酒宴が催され、大皿に山海の珍味が盛られ、デザートやおやつにカステラ、白羊羹ようかん、金平糖なども出されたという(山口宗之「真木和泉」)。
 さらに薩摩藩は真木の要望に応じて、要人たちとの会見も許している。たとえば、久光の最側近・小松帯刀との会見も実現した。
 三月二日、小松は真木を自邸に招いた。真木は久光が自藩(久留米藩)の藩主・有馬頼咸よりしげと相談して善後策を講じてくれるよう申し入れたようである。実際、久留米藩の使者・不破左門が入薩しており、真木はその同行者であると述べたらしい(「大久保利通関係文書五」真木和泉一号)。真木は久光の上京に久留米藩も巻き込んで、あわよくば自身も上京しようと考えていたのだろう。
 しかし、小松の回答は真木の意に沿うものではなかった。小松は、久光はあくまで藩主・茂久の江戸参府延期を認めてもらったお礼として、江戸に向かうのであり、途中、有馬頼咸と会うわけにはいかないと断り、上京計画を秘匿した。さらに真木の入薩により藩内が騒がしくなっているので、真木を同道すると、藩内が動乱になるかもしれないという理由から、真木の随行も拒絶したのである(宇高浩「真木和泉守」)。
 小松に拒絶された真木はそれでもあきらめず、久光の決起を求める「薩周防公子に呈する書」をしたためて、小松に託している。このとき、真木は短冊に和歌二首も添えている。その一首には真木の焦心がうかがえる。
「おくれなば色も桜におとるらむ いそぐぞ梅のにほひなりける」
 六日、小松に再び招かれた真木は日向路を通って薩摩領内から退去するよう指示された。肥後路をく久光一行と合流させないように避けたのだろう。
 同日午後、真木らは鹿児島を発ったが、八日、財部の通山まで来たところで再び小松に呼び戻されて鹿児島に戻った。十一日、小松を訪ねると、佐土原で久留米藩の捕吏が真木らを待ち受けているから保護したいと召還の理由を告げたが、おそらくそれは口実で、やはり念を入れて、もうしばらく真木を領内に抑留したほうがよいという判断だったと思われる。
 結局、真木らが再び出立したのは、久光が上京して半月近くたった三月三十日だった。
 真木への処遇をみると、久光周辺がどれほど真木を恐れて警戒していたかがわかる。
(歴史作家・桐野作人) 

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